ダダリズム、テイク2、終わりのない。
 
 
 
あなたの声が発せられ、わたしの耳に届く、その速度はあなたの声の質と量、場所や距離によって変化するが、わたしはその差異を感知できないまま、あなたの声を聞き、反芻し、応答する。
 
二台のログドラムと七枚のシンバルのまわりを楕円形で囲むように配置された椅子のひとつに座る観客わたしはログドラムを挟んで向かいあったダダリズムのふたり岡本と山田それぞれが持つ2本のスティックを見つめる。
スティックが振られ、その先端がログドラムに接触する。
わたしは最初、その接触点とそこから発せられる音とを一致させることができる。
奇妙なことだ。打点と音は一致するに決まっている。が、だんだんとその一致は揺らぎ始め、目と耳を乖離させていく。わたしは前のめりになり、聞こえる音が発せられる点を探す、が、もう見つからない。
そのときになって気づく、わたしはまったくもって十分には聞いていなかった、と。前述の「だんだん」のあいだにすでに異変は起きていた。
神のいたずらではなく、ダダリズム、ログドラム、壁の三位一体が成立した空間の中にわたしはいる… 
 
よくわからないことを言っているわたしは心もとない目と耳をもうちょっと使って、ダダリズムとログドラムに接近してみます。ダダリズムの4つの手は4拍子を基底としてそれぞれ異なるリズムでログドラムを叩くことができ、それらを組み合わせてダダリズムを生む。
わたしはその組合せについて詳述できない。いきなり挫折してしまった。
ベケットの本を愛読する者としては無念だ。ダダリズムは拠点である《ンチチビル》で自分たちの演奏を録音し、聴き、もう一度やる、その反復を経たうえで組合せをつくっている。
グレン・グールドはこのテイク2の手法で録音物作りに専念し、公衆の前で演奏をしなくなったが、ダダリズムはそのどちらもやっている。わたしはしあわせものだ。ベケット−モロイがやるポケットと石と石しゃぶりのナンセンスな順列組合せをいっしょになってやる自信はないが、ダダリズムが繰り出すリズムの組合せなら一生付き合っていられる。目を閉じて音にだけ集中するべきなのだろうか? 
 
いや、もう少し目を見開いてやってみます。
スティックのそれぞれの打音が単独であるいは交錯してリズムとメロディを生む。その中からひとつのリズムとメロディの出所を見つけるのは簡単だが、それにしがみついているとダダリズムを取り逃がしてしまう。選択した途端に不幸が始まる。
ひとつのリズムに焦点を合わせず、複数のリズムを平行に分岐させるダダリズムは選択肢を提示しているのではなく、わたしが選択せずに済むようにリズムを提示する。
わたしは自分の好きなときに好きなようにリズムとリズムのあいだを遊泳し、その波の中で別のメロディを発見し、別の聞こえを感覚して、音との距離を自由に変化させる。
たとえ軍隊の四拍子が大音量で鳴りわたる空間の中に放り込まれても、わたしはそれに従うことなく別のリズム、別の響きを発見するだろう。クリシェはこのとき、ここで終わった。ダダリズムは退屈と無縁である。
 
やはりダダリズムの速度に追いつけないわたしは、ある一般的な事実を援用します。
音は発せられた地点から遅れてわたしの耳に届く。
打点を教えてくれるはずの光はスティックの速度に追いつかず、スティックの振り子運動は優雅に揺らぎつづける扇形の残像となって、わたしの目と打点とのあいだにずれを生じさせる。
スティックはもはやログドラムに接触することなく絶えず音を生みつづけている。錯覚の中で見聞きしているわたしは、やはり徹底的に遅れて、それを感覚するのだが、わたしが援用した音の「遅れ」という一般的な事実も、テイク2の反復によってすでに「遅れ」を組み込み済みのダダ時間の中では溶解する。
もはや何から遅れているのかも不確かなまま残/現像と残/現響が交錯し、わたしは過去・現在・未来の不可識別ゾーンに侵入する。
並走する異なるリズムたちに包み込まれたわたしはその音が過去に鳴らされたのか、いま鳴っているのか、これから鳴る音なのか判別できなくなっている。
これは恐ろしいことであり、素晴らしいことだ。あなたがいま発した声をいまわたしは聞いた。
わたしはあなたが声を発する前にその声を聞いた。
あなたはいまたしかに声を発したが、わたしはまだその声を聞いていない。
わたしはいま、かつてあなたが発した、そのときわたしが聞かなかった声を聞いた。
わたしはいま、あなたがこれから発するであろう声を聞いている。
 
明瞭かつ曖昧な時間の中にいるわたしのこのまま二時間でも三時間でも音楽をつづけてほしいという駄駄は何も意味しないことはわかっています。
当然のように終わりはやってくる。岡本と山田それぞれの片手がログドラムの音の響かない部分を叩き、もう一方の手は四つの点を打つ。
後者では岡本の領域侵犯の一手の後から絶えず聞こえていた最高にもたったリズムが継続し、前者では打点と音の一致が帰ってくる。
このときにはもう、わたしは終わりがやってくることを知っているのだが、どうしてそれがやってくるのか、理解しない。
時間には本性上、始まりも終わりもない。観客のためにもたらされる終わり、紋切り型に則った必然を装う物語の終わり、民主主義的なプロセスを踏んで互いに合意した上での終わりはただのスラッシュ、あるいは、であり、すぐにまた始まるための終わりである。
わたしの駄駄は終わらない。ただ、《外》の前回公演における2日目のタムとシンバルのセットの終わりは違った。その終わりは予感する間も与えず、唐突にやってきたにもかかわらずダダリズムのふたりの中では共有されており、わたしにはやはり理解できなかったのだが、駄駄をこねる猶予もなかった。
最高の孤独。終わりのためのプログラムが存在しない、誰の恣意もないところから突然やってくる動かしようのない終わりこそをわたしは終わりと呼び、これが最後の響きを聴く。
 
また見聞きすることを始めたわたしは7枚(相対したふたりの前にそれぞれ3枚ずつ、その中心に1枚)のシンバルを挟んで相対したふたりの持つスティックを見つめる。
スティックが1枚のシンバルに触れ、シンバルが震える。
そのシンバルが触れるか触れないかのところにセットされた別のシンバルからも音が出ているのか、音はすぐに打点から離れて、浮遊し、壁にぶつかり、複数の層となってわたしの耳に届く。
リズムは遠のき、いつのまにか立ち現れた倍音が耳元でささやき、叫ぶ。この倍音に関して、別の観客たちから証言が寄せられている。
「声が聞こえた」「叫びが聞こえた」「小人たちが話していた」… 耳の角度を変えるだけでその声たちは変化する。わたしは一時に3つの声を聞いたのだが、スティックやリズムに気をとられていると、いつのまにかわたしの意識は数え上げられることのなかった別の声にどこか遠いところへ連れて行かれてしまう。
わたしの声を聞け、といわんばかりの圧力で、それでいてやさしくそっと連れ去るのだ。
酩酊は加速し、無意識は増幅され、七枚のシンバルから立ちのぼる非物体的な蒸気に空間全体が満たされる。叫びとささやきはわたしの運動といっしょに変化するだろう。
わたしは立ち上がり、ダダリズムとシンバルのまわりを跳びはね、首をふりふり駆け回りたい。
その欲望はまだ達せられていない。
《ンチチビル》の公演では驚くべきことに観客1人という回もあったそうだから、わたしがもしそのひとりになれば可能だろう。が、もはやそんな回は存在しない。
わたしたちはもう、いまだかつてただの一度も声なんか聞こえてこなかったところから発せられた今まで聞いたことのない声を聞いてしまったのだ。

 
 
 
 

松原俊太郎
 
作家、雑誌『地下室』主筆。1988年5月生。熊本県熊本市出身。神戸大学経済学部卒。
地点『ファッツァー』で演劇と出会う。
2015年、処女戯曲『みちゆき』で第15回AAF戯曲賞(愛知県芸術劇場主催)大賞を受賞。
2017年4月、戯曲『忘れる日本人』をKAATで地点が上演予定。
2016−2018年度、「演劇計画Ⅱ」(京都芸術センター主催)に委嘱劇作家として参加。