音楽を理解するなんてことがあるのだろうか
 
 
 
音楽は言葉じゃないということはまんざら嘘でもないような気がする。
空間現代のライブに行けばそう思う。
彼らの行為は間違いなく音楽だ。それは理解という呪縛から逃れ、
言葉の限界という問題を鮮やかに見せる。
 
そうこのバンドの音楽は、聞くのではなく見なければならない。
彼らの音作りの数学を目撃することが、彼らの音楽を聞くことであり、
つまりは体感することに繋がる。「くりかえし」という数学は、
音楽が最も得意とする領域であることを彼らは自覚している。
 
圧倒的にストイックなこの自覚は、もはやオリジナルな音を生み出している。
ギター、ベース、ドラムの三つが完全に同期して進められる時間は、
心地よさなんて生ぬるいものではなく快楽としか言いようのない瞬間に達する。
それを仮に「リズム」と呼ぶとして、これでもか、これでもか、
というくりかえしの中に当然、沸き上がってくる差異が生じるわけだが、
この差異とは何かと考えると、「怒り」だと思う。
 
あんなにドラムの透き通った破裂寸前の音は聞いたことがない。
それはもちろん、ギターとベースとが同時に弦を叩いているからであり、
あるいは差異によってずらすからであり、そして次の瞬間に止まるからである。
そしてやはりまた同時に爆発するわけだ。
 
このリズムは、実は我々にとって親しみやすいはずのものである。
しかし、それを許さないのは、やはり「怒り」なのであり、
大事なことはそれが彼らの個人的なメッセージとかイデオロギーといった
言葉による怒りではないということ。私は、あえて「音楽の怒り」と言いたい。
空間現代の音楽が怒りなのではなく、音楽そのものが怒りから成っている
ということを空間現代は表現している。
 
それは、音楽の源であり、我々はその鼓動をリズムとし生き、
そして死んでゆくわけだ。
断末魔の最期の叫び、もしかしたらそんなに劇的に我々は死ねないだろう。
だから想像したい。最期の叫びを。空間現代のライブに行くということは、
そのレッスンである。心配することはない。彼らは、完全に我々の息の根を止めてくれる。
 
死の淵に立つとき、もし意識がしっかりしていれば、
誰でも音楽を持つことを、その普遍性をこのバンドは教えてくれた。

 
 
 
 

三浦 基
 
演出家。劇団「地点」代表。
1973年生まれ。
文化庁派遣芸術家在外研修員としてパリに滞在する。
2001年帰国。地点の活動を本格化。2005年、京都へ拠点を移す。
2013年、京都にアトリエ「アンダースロー」を開場。
著書に『おもしろければOKか?現代演劇考』。
2017年、読売演劇大賞選考委員特別賞受賞。
空間現代との作品にブレヒト作『ファッツァー』、
マヤコフスキー作『ミステリヤ・ブッフ』、シェイクスピア作『ロミオとジュリエット』。